林恭一はたまたま手にした一本のテープから、過去におこったある一つの小さな、とはいえ三人の人間を大きく動かした事件を知る。それは名門と謳われたとある高校での教師と生徒の醜聞だった。
夏子は表だって退学を宣告されたわけではない。だが少なくとも学園に居場所はなかった。夏子は学校を飛び出し、浮浪生活を続けながら自らの腕でもって生き始める。
「苦悩蒐集」を生き甲斐とする平田にとって、精神を削り人知れず苦悩する柴はまさに格好のカモだった。同僚の教師である藤嶋から彼を護るという名目で、平田は柴の傷をいたぶり始める。
林はどこに依頼されたでもなくそのテープの検証を始めていた。
゚ア干桶鯵た夏子の前に現れ凜讀。」のことを「罐茱・と言った。
「聖職」というと、職務に於いて民衆から鑑とされることが義務づけられた人間ということになるだろうが、宗教色の弱いこの国では勿論それは牧師や住職などではなく、敢えて言うなら「教師」がその任を負うことになるのではないかと思われる。だが「教師」の神聖性もとうの昔に崩れており、理想的な出会いを果たした幸運な学徒以外には、「教職=聖職」という、少なくとも理想的にはそうあるべきだという概念さえない。
もし「教師vs学徒」の「鑑vs成長過程の人間」という本質的な有り様に違いがないならば、やはり「教職=聖職」として存在するべきである。
では教師はなぜ神聖性を失ったのか、いつ失ったのか、誰が剥奪したのか。また、もしあるとすれば現代この国で「教師」が持ち得る神聖性とその結果の役割は何か。かつて「罪とは何か」を問うたホーソーンの傑作を題材に、今回は『現代の聖職』 を描く。
宮本 荊